書くことは、過去の自分と対話し、未来の自分へとつなげる──それは、世界の歴史と同じように、「個人の歴史」を紡いでいく営みなのかもしれません。
実は先日「ナラティブ 書くこと ブログ」でGoogle検索をしたところ、僕がnoteで書いた記事が ”検索2位” に表示されていました。

ニッチなキーワードとはいえ「書くことの意味」を真剣に考えている人たちに、きちんと届いている実感がありました。
だからこそ今回は、このnote記事の続編として──書くことが人生における”私的な歴史の営み”になりうるのかを考えてみたいと思います。
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ブログ版の前編記事はこちらです。こちらも合わせてご覧ください。
『歴史とは、現在と過去の対話である』
この一説は、E.H.カーの『歴史とはなにか』(岩波新書)からの引用です。
『歴史とは、現在と過去の対話である』──E.H.カー

ふとした瞬間に、この言葉を思い出すことがあります。とくに、自分のノートを読み返しているとき。それは、過去の自分との静かな“対話”のようにも感じられるのです。
書くことは「ナラティブ=語り直し」の力をもつ
僕たちは、日々の出来事をそのまま受け入れているようで、実は「物語化=ナラティブ」を通して意味づけしています。
例えば、“今日上司に怒られた”という出来事ひとつ取っても、ただの記録ではなく「なぜそれが起きたのか」「そのとき自分は何を思ったのか」と書き留めることで、それは“人生の一部としてのストーリー”に変わる。
これはまさに、歴史を書く営みにほかならないと思うのです。
ノートと文具は、その歴史の「証人」である
ノートに書きつけ、間違えてはMONO消しゴムで消す。そしてまた書く。その繰り返しで生まれた言葉たち。そこには“誰にも読まれない歴史”が、確かに残されています。

誰かに評価されるわけでもない。でも、自分の人生を自分で語るという意味において、それらはとても尊い「一次資料」です。そしてそれが「生身の人生」そのものなんです。
書き残すことは、未来の自分との通信である
E.H.カーが言う「歴史」は、過去との対話であると同時に、未来への伝達でもある。
つまり「書くこと」は、過去の自分と語り合いながら、未来の自分に語りかけるという、“時間を横断する営為”なんだと思います。
何気ないノートの1ページも、数年後には思いがけない意味を持つことがある。だからこそ、日々の思いを少しずつでも綴っていくことが、僕にとっては「人生の航跡」を描く行為になっているのです。
結び──誰のためでもない、自分の歴史を書く
誰にも読まれなくていい。
評価されなくていい。
それでも「僕は書く」。
それは、僕というひとりの人間がこの世に生きた痕跡を残すため。
そして、どこかでまた“自分自身と出会う”ために。書くことは、僕にとって、自分史をつむぎ、人生の意味を少しずつ編みなおす営みなのです。
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