ロルバーンのB5ノートを久しぶりに広げたら、1年前のページにこう書いてあった。
「正しく途方に暮れる」
「途方に暮れるレッスン」

ふと見返したこのフレーズは、奇妙な親しみを持って僕に迫ってきた。何をきっかけに書いたのかは思い出せない。しかし1年前の自分が、いまの僕に問いを差し出してきたような感じがした。
思えば最近ずっと「問いの持ち方」について考えている。いや、それよりもっと深く──「問いを問う」とは何か?を自分に課していると言ったほうが近い。
今夜は、そのテーマに身体を使って向き合ってみようと思う。
思索の装置としての万年筆とノート
問いを問うために、僕が選んだのは「パイロット カスタム743(Mニブ)」と「ロルバーンのB5ノート」だ。

そして、たっぷりとインクが流れる”743”は思考を途切れさせない。ペン先が紙に触れた瞬間に、言葉がインクになってにじみ出す。
A5よりも大きなB5のページは紙面が広い。いやかなり広く感じる。

まるで思考のフィールドが広がったようだ。のびのびと考えることができる。そこに大きな文字を書くことで、思考も広がる。まるで身体全体を使って問いを追いかけているような気分になる。
この筆記感覚を“贅沢”と呼ぶ人もいるかもしれない。でも、僕にとっては思考するための準備運動だ。
筆記という思考──問いの精製過程
僕が今、紙に書いているのは「問うことを問うとは何か?」という、自家撞着気味の問いだ。
でも、書くうちにわかってきた。
問いとは、答えを得るためのものではない。
自分の思考が向かおうとしている“方向”そのものを示すものだ。
そしてその方向が合っているかどうかを確かめるには、問いの純度=精製度を上げていくしかない。

最初はざらついていた問いが、書くことで徐々に輪郭を帯びてくる。 語尾が変わり、主語が変わり、焦点が変わっていく。そのプロセスこそが、僕にとっての“問いに迫る時間”だ。
あわせて読みたい(ハスヌマゴロウのnote)
確信に迫れたか?──一日の終わりに問う
思考の終わりに、僕はいつも自分にこう問いかける。
今日の自分は、内在する問いの“確信”に一歩でも近づけたか?

これは“成果”を求める問いではない。 ただ、「自分の中の問いが、昨日よりも少しだけ濃く、少しだけ純粋なものに変化しているか?」を問うだけだ。
これを毎日繰り返すことで、問いの精製度は確実に高まっていく。
それがきっと、僕の知的生産の土台をつくるのだろう。
おわりに:書くことは、問いの鏡だ
万年筆で書くという行為は、考えることに似ている。 一字一字に“自分の問いとの距離”が映っている。ロルバーンの余白は、問いの余白でもある。問いを問うというのは、つまり、”問いに本気で向き合う覚悟があるか?”を問うこと。
僕にとって、それは文字通り「書くことでしか見えないもの」なのだ。
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