人はなぜ、善意のつもりで人を傷つけてしまうのか。人はなぜ、自己保身に走り、社会や組織の中で同調圧力に屈してしまうのか。古賀史健氏はこの現象を「集団浅慮」という言葉のプリズムを通して見ました。
すると、さまざまな「色相」がそこに現れたのです。
本記事では、この概念がなぜ暴力を生み、なぜ誰も止められなかったのかを、読者自身の視点に引き寄せて整理していきます。
はじめに|「暴力」も「ハラスメント」も分かっているつもりだった
正直に言うと、僕はこれまで「ハラスメント」や「暴力」について、分かっている”つもり”でした。「セクシャルハラスメント」とは、”女性が嫌がること”をする行為、そして「暴力」とは、”殴る・蹴る”といった直接的な身体への加害のことだと。
「言葉の暴力」というものに至ってはしょっちゅう聞いてはいたけど「具体的にはどんなことなんだろう?」と、どこか腑に落ちないところがありました。だって、言葉は殴らないし、痕も残らない。だから本心では、暴力とは完全に結びついていません。「誰に何を言われようと、受け流せばいい」。心のどこかで、そんな感覚を持っていたのだと思います。
そしていま『集団浅慮』(古賀史健著/ダイヤモンド社)を読んで、雷に撃たれたような強い衝撃とともに、自分の無知を恥じ、暴力の定義が明確になりました。

『集団浅慮』は、何を問い直した本なのか
本書の内容を簡単に説明すると、中居正広氏によるフジテレビ女性社員への性暴力事案をめぐる
第三者委員会報告書を著者・古賀史健さんが「テキスト」として読み込み、そこに散在する事実・証言・沈黙を接続し直した一冊であります。
だが本書の射程は「特定事案の検証」にとどまらない。
とくに細かく言及しているのは、なぜ組織は、誰かを守ろうとしながら、結果的に誰も守らなかったのか。なぜ善意や配慮、正しさが積み重なったはずの場で、人権侵害が起きてしまったのか。
古賀さんはそれを「集団浅慮」という言葉でつかみ、それが起きた組織的背景、関わった人たちの意識などを細かく丁寧に読み取っています。
こうした「誰も悪意を持っていないのに、異議が唱えられない空気」は、特定の組織に限らず、都市や社会の造られた構造の中にも、埋め込まれているように感じます。
「尊重」がひとつもなかった、という指摘(230ページ)
ここからは、本書を読んで私の認識が大きく揺さぶられた箇所を取り上げます。キーワードは「ビジネスと人権」そして「尊重」です。
まずは、第4章 あなたには「尊重される権利がある」230ページのこの箇所です。
集団浅慮と人権侵害が起きた理由は、いまや明らかだろう。
そこに「尊重」がひとつもなかったからだ。
女性Aはひとりの人間としても、社員としても、「尊重」されなかった。そして佐々木アナも、産業医も、H人事局長も「尊重」されてこなかった。港社長ら経営陣が尊重したのはただ、「オレたち」だけだったのである。
衝撃だったのは「尊重されなかった」のが被害者だけではない、と明確に書かれている点です。
港社長、大多専務は「オレたち」という内輪を守ることに固執し、本来守るべきだった被害女性Aさんの人権を尊重しなかった。そして、被害女性Aさんのフォローのすべてを現場に押し付け「人間として」扱われていなかったのをはじめて知りました。
この章を読んだときに「俺も権限はなけど、この人たち(フジテレビ経営陣)に近い意識はあったかも」と、この問題が他人事とは思えなくなり、僕を含む昭和世代の男性サラリーマンには、「人権尊重」を体系的に学ぶ機会が乏しかったのでは、と感じるのです。
暴力の定義が書き換わった瞬間(239ページ)
もう一つ、人権を著しく侵害する行為である「暴力」の定義もありました。
そして、私の「自己決定権」を侵害する行為は、すべて暴力である。
暴力とは、殴る蹴るといった身体的加害のみを指すものではない。
個人の身体的な自己決定権、精神的な自己決定権、そして性的な自己決定権を、力(権力や腕力、その他の力の圧力)によって歪める行為は、すべて暴力なのである。
これは僕の意識を大きく変えるものでした。殴る蹴るといった直接的な暴力は言うまでもなく。そして、言葉やそれに伴う暗黙の圧力によって、自己決定権を歪める行為はすべて暴力だと。
言い方を変えると、法律に触れるかどうかではなく、その行為を受ける人が「自己が持つ選択する権利」を奪うものはすべて「暴力」なんだと、心の底から理解しました。
そして、この箇所を読んだ瞬間、今までそこに思い至らなかった自分の浅はかさに、全身から脂汗が滲みました。
尊重の欠如は、自己決定権を奪う
230ページと239ページの二つの引用箇所は、実は一本の線でつながっていると考えています。配慮がない。そして”尊重の欠如”、その意識が不足した行為の結果、人は自分で決めることができなくなる。
そして、自己決定権が歪められた瞬間、その行為は即座に「暴力」となるのです。善意であっても、配慮のつもりでも「正しい判断」だったとしても、誰の決定権が残っているのかを見失えば、それは暴力に変わり得る。
殴らなくても、人は人を傷つける。蹴らなくても、人を傷つけてしまうのです。
「尊重」とは、相手の声を聴くことからはじまる
この本を読んでから、僕は自分の言葉を、以前のように無邪気に信じられなくなりました。相手のためだと思って発する言葉が、相手の決定権を歪めていないか。
沈黙を守ることが、誰かの選択肢を奪っていないか。僕の態度は、僕の発言は、それを見る人、受ける人にどんな影響を与えるのか。
こんな問いが頭の中に、残り続けているのです。
正直怖い。それでも日々の仕事をして、暮らしていくには、人とのコミュニケーションは必要だ。だから今まで以上に、相手の話を聴くことからはじめたいと思っています。
「尊重する」とはこういうことなのでしょう。
こうした構造は、特別な不祥事や極端な事例だけで生まれるものではありません。日々の労働や意思決定の積み重ねの中で、静かに再生産されていくものでもあります。
集団浅慮は、特別な誰かの話ではない
僕はまだ『集団浅慮』に書かれていることをすべて理解できたとは言い難い。けれども、今まで30年のサラリーマン生活で得た「倫理観」を根底から否定されたような衝撃でした。モノのみかたが大きく変わったといえます。
それと同時に「集団浅慮」は悪意ある誰かが起こすものでもなく、「オレたち」を守ろうとした瞬間、社会のあらゆるコミュニティーで生まれることでしょう。
だからこそ、この本が提示したことは重い。そして、多くの人に読んで欲しい、読む価値のある一冊でした。
「集団浅慮」を世に問うた著者の古賀史健さん、そして、この本の出版に携わった人たちに心からの感謝と尊敬の念を表します。
あとがき|ブックレビューリレー
そして「集団浅慮」のレビューを書き終えたいま、新たなる問いが浮かび上がりました。それは、僕らの便利な生活が、誰かの犠牲で成り立っているのではないか?との問いです。
僕が使うスマートフォンが、レアメタルの争奪戦を引き起こしたり、SPAで売られる安価なアパレル製品が、原料の産地や縫製工場での低賃金、過重労働を引き起こしたり。
安定供給や低価格を求める僕らの消費行動は、鉱山採掘国や製造拠点のある国の人々に、低賃金や劣悪な労務環境を強いてはいないだろうかという問いです。
僕はその現実を知りたい。知識として得たら多くの人と共有したいと思っています。
そんな理由から『ビジネスと人権ー人を大切にしない社会を変える』(伊藤和子著/岩波新書)を読み始めました。読了したら今回同様、レビューをブログにまとめます。






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