はじめに
先月見た、森美術館の現代アート展「六本木クロッシングー時間は過ぎ去る わたしたちは永遠」が衝撃的だった。言葉にできない体験だったのはこの記事に書いた通りである。
アートは、絵画や彫刻、映像そのほかの有形無形の素材で人間の感情を表現する。言葉による表現を選択しなかったということは、受け手の解釈によって作品は完成るるのだと、勝手に思い込んでいるがそれでいいいのだ、と。
しかし、映像とメッセージによる作品『<聴取者>THE LISTNER/荒木悠』が強烈な記憶として残っている。いわば事故に近い。
それから約1ヶ月が経ったのに、渇望に近いカタチで、どうしてももう一度見たい、その言葉を浴びたい、と迫ってくる。
なので、再び僕は六本木の地に足を向けた。どこまでお伝えできるか自信はありませんが、作品の魅力というか、鑑賞2度目のインプレッションをお伝えします。
印象に残った『六本木クロッシング 2025』出展作品 ①

暗闇に浮かぶ言葉の空間で、私は立ち止まった
展示室に足を踏み入れた瞬間、視界は暗闇に包まれる。そして正面のスクリーンには、回転する牡蠣をモチーフにした映像と、足元のモニターには正反双方の断片的な言葉が照射され、環境音のBGMと共に、低い声のナレーションが響く。

その光景は「読む」のではなかった。言葉を浴びる、いや「曝された」に近い。言葉が情報ではなく、物質のように存在していた。


普段、私たちは言葉を軽く扱いすぎているのではないか──そんな問いが、静かに胸に沈んでいった。
声を上げることと、沈黙することのあいだ
作品の中で繰り返し示されていたのは「声を上げよ」というメッセージと「沈黙もまた意味を持つ」という逆の命題だった。

どちらも正しいようで、どちらも危うい。声は変化を生むが、騒音にもなる。沈黙は屈服にも見えるが、抵抗にもなり得る。
私たちはいつも、この揺れの中で判断している。正解は状況によって変わる。それでも選ばなければならない、その重さが突きつけられた。
真実は語るたびに揺れ動く
さらに映像作品が続くと「真実を語れ」という言葉と同時に、「真実は語るたびに変わる」という断片があった。

ここに、この作品の核心がある。私たちが発する言葉は嘘でなくとも、完全な真実でもない。視点、経験、感情によって形を変える。
それでも言葉は現実に影響を与え、人の心を動かす。だからこそ言葉には力があり、同時に責任が伴う。語ること自体が、すでに世界への関与なのだ。
それでも僕は、祈るように言葉を書く
この作品の強さから僕は文章を持てなくなるのか。僕は自分の言葉が常に正しいとは思っていない。思い違いも、迷いも、後から悔いる表現もある。それでも、いま書いている。
では、なぜ書くのか。
それは主張というより、生きることへの感謝に近い感覚だ。残りの人生も残り少なくなってきた。僕もいつかはこの世から消えていなくなる。
そして人は生きている限り、言葉を持つ。言葉は刃にもなり得るが、灯りにもなり得る。言葉は人間の弱さゆえの表現でもあるが、弱いからこそ、読み手の心は強く揺さぶられるのだ。
僕は言葉に誠実でありたいと思う。断定ではなく、いま見えている景色として差し出す。その姿勢こそが、言葉への責任なのだと思う。

言葉の強さに向き合う覚悟を、この作品は僕に教えているのだと感じながら、僕は会場を後にした。また現代アートで心を揺さぶられたい。
印象に残った『六本木クロッシング 2025』出展作品 ②



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