「批評=斬る」という誤解
「批評」と聞くと、どこか身構えてしまう人は少なくないと思う。否定されるのではないか、揚げ足を取られるのではないか。
あるいは、作品や著者を“斬る”行為なのではないか──そんなイメージが先に立つ。
その結果、レビューを書く側も読む側も、安全な場所としての「ファンレビュー」に留まりがちになる。
「面白かった」
「学びがあった」
「おすすめです」
もちろん、それ自体が間違っているわけではない。だが、そこにひとつ問いを置いてみたい。
それは、本当に“レビュー”として機能しているだろうか。
ファンレビューが持つ限界
ファンレビューは、書き手の誠実な感情表現である。「好き」という感情は、嘘がつきにくく、読み手にも伝わりやすい。しかし同時に、ファンレビューには限界がある。
なぜなら、読者がレビューを読む目的は、感情への共感ではなく、購買決定を補助する情報を得ることだからだ。
- 自分に合う本か、いま読むべき本か
- コスト(時間・お金)に見合う対価を得られるか
こうした判断に対して「この本が好き」という感想だけでは情報が足りない。感情は正しい。だが、感情だけでは価値は翻訳されない。
批評とは攻撃ではなく「理解の姿勢」である
では改めて、批評とは何か。
それは、作品を攻撃することでも、著者の能力を評論することでもない。批評とは、作品を構造として理解しようとする姿勢だと考えている。
- なにが書かれているのか
- どんな前提に立っているのか
- どんな読者を想定しているのか
良い点も、引っかかる点も、どちらか一方だけを拾うのではなく、同じ視線で見つめる。ここで重要なのは、評価とは“裁定”ではなく“翻訳”だということだ。
著者の言葉を、読者が判断できる形へと変換する。それがレビューの役割であり、批評の機能でもある。
どこまで踏み込むべきか
では、レビューはどこまで踏み込むべきなのか。少なくとも、著者を裁く必要はない。
人格や動機を推測する必要もない。
しかし一方で、読者の視界を曇らせる配慮もまた不要だ。
この本は「こういう人には強く刺さる」
反対に「こういう読者には、合わない」
こうした線引きを言語化することは、否定でも攻撃でもない。むしろそれは、読者の時間を守るための誠実さだ。
踏み込むとは、強い言葉を使うことではなく、判断材料を「提示する」ことなのだと思う。
まとめ|“好き”と“責任”のあいだで書く
ブックレビューを書いていると、どうしても書き手の価値観がにじみ出る。
- なにを重要だと感じるか
- どこで違和感を覚えるか
- どんな言葉を選択するか
それらはすべて、書き手自身の判断基準であり、人格の投影だ。たとえ匿名であっても、
レビューは決して無色ではない。
だからこそ「どう書くか」は、同時に「どういう立場で書くか」という問いを含んでいる。ファンとして書くことと、批評的に書くことは、対立するものではない。
好きだからこそ、いい加減な言葉では書けない。好きだからこそ、読者に誤解を与えたくない。つまり、レビューを書くという行為は、そのあいだで揺れながら、言葉の責任を引き受けることなのだと思う。
次回は、その責任をさらに一歩進めて「レビューを書くという倫理」について考えたい。
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