郊外の大型書店が、関東で新しい出店用地を探している。対象は外環道と圏央道の間。僕はその圏央道の沿線に住んでいる。
そんなポストを見て、自分は行くだろうかと考えた。このトピックを起点に、話は買い物の仕方から、本の売られ方、タイムラインの見え方にまで広がった。
これは話題の店を否定する記事ではない。称賛一色の空気の中に、もうひとつの補助線を引いてみる記事だ。
買い物はレジャーか、生活必需の要請か
普段の移動はほとんど車だ。自宅から圏央道のインターまでは約20分。郊外に住み、郊外で働いている。そして、本が好き。条件だけ見れば、この書店が狙う客そのものだ。
それでも行かない。行けないのではなく、行けるのに行かない。だとすれば、分かれ目は立地や距離ではない。もっと別のところにある。
郊外の大型店は、目的の本を買う場所というより、半日を過ごす場所として作られている。広い売場を歩き、本や文具を眺め、カフェで一息つく。広さそのものも商品だ。
買い物をレジャーと捉えるかどうかは、好みの問題だと思う。僕にとって買い物は生活の要請だ。アウトレットに行くときも、寄る店を先に決め、回る順番まで考えてから出かける。そうしないと、予定になかったものを買ってしまうからだ。
店にとっての「ついで買い」は、客にとっての「無駄遣い」だ。同じ買い物が、立場が変わるだけで別の名前になる。
広い店は客を迷わせるのか
以前読んだ書籍『依存症ビジネス』(※注1)に、こんな話があった。アメリカで最初期のショッピングモールを設計した建築家ビクター・グルーエンにちなむ、「グルーエン移送効果」という仮説だ。
一部のモールは、出口や通路をわざとわかりにくく配置している。音楽や照明も合わさり、客はいつの間にか判断が鈍り、衝動買いに向かう。そのとき人の歩みは遅くなるのだそうだ。
すべての大型店がそうだとは言わない。ただ、時間を過ごしてもらうための設計と、客の足を止めるための設計は、紙一重なのかもしれない。導線を決めてから出かけるのは、その仕掛けから自分の財布を守る、僕なりのやり方だ。
大型書店でついつい本を買いすぎてしまうのは本好きなら誰でも経験があるだろう。壁のような書棚の間で、右往左往していると、目にする本すべてを手に入れたくなる。それは一種の「グルーエン移送効果」かもしれない。
売れていれば、読まれているのか
大型書店と聞いてもう一つ思い出すことがある。
以前、ある大型書店の書店員さんと話した。その方は「若者の読書離れはない」と、きっぱり言っていた。たしかにその店の売場は、若い人でにぎわっていた。
でも、売れることと読まれることは同じだろうか。書店に足を運ぶのは、もともと本に関心のある人たちだ。売場に立つ人ほど、その熱量を毎日浴びている。店に来ない若者の姿は、レジからは見えない。それに、滞在型の店で買う本は、体験の記念品になることもある。買ったあとに精読されているのか。そこまで確かめないと、「売れているから読書離れはない」とは言い切れない。
文化庁の調査では、若者に限らず、1か月に1冊も本を読まない人が62.6%にのぼる(下図参照)。

もちろん、買うことが読書の入り口になる人もいる。そこを否定するつもりはない。ただ、売上という物差しだけでは測れないものがあると言いたいだけだ。
どこで買っても同じなら、どこで買うか
戦後の日本は、画一化を豊かさとしてきたように思う。地方都市は新宿や銀座をまねた駅前をつくり、全国に「〇〇銀座」が生まれた。やがて駅前は寂れ、郊外のロードサイドに同じような大型店が並んだ。
これは、三浦展が提唱した「ファスト風土」の風景だ。ファストフードのように、全国一律の均質なものになってしまっているのではないか。それがこの言葉に込められた意味だという(※注3)。
考えてみると、本ほど画一的な商品もない。本は再販制度によって、例外的に価格拘束が認められる商品である。よって、売る側の判断で値下げすることはできない。同じ本なら、どの店で買っても同じ値段だ。取次の流通網を通じて、全国に同じように届く。書店は、ファスト風土を象徴するビジネスのひとつなのかもしれない。
どこで買っても同じなら、人は欲しいものが手に入る可能性の高い場所を選ぶ。いまのところ、それに応えているのが圧倒的な物量だ。郊外の大型書店が支持されるのは、マーケティングとして理にかなっている。広い店内に膨大な量の書籍を陳列している。出版社や取次が、たくさん本を売ってくれる店を歓迎するのは当然だろう。
しかし、物量だけならネット書店にはかなわない。それでも大型店に人が集まるのは、欲しい本を実際に手に取れて、文具・玩具などの書籍以外の商品も選べて、飲食店も併設されている店舗なら、そこで半日を過ごせるからだ。大型店が売っているのは、物量にレジャー的な体験を足したものなのだと思う。
本の買い方の三形態
本の買い方は、三つに分かれる気がする。物量に価値を感じる人は大型店へ。手に入りさえすればいい人はネット書店へ。そして、欲しい本があること以外の何かを求める人は、独立系書店へ向かう。
本を買う理由にも段階がある。この人の本だから読みたい。このジャンルの本を読みたい。そして、この書店で買いたい。初めのふたつは、どの店で買っても同じだ。三つめだけが、店が自分の力で勝ち取る理由だ。店主の選書で生き残る小さな書店や、著者のトークイベントを開く書店に、僕自身は「わざわざ行く価値」を感じる。
僕が思い描く『わざわざ行く価値のある店』は、こちらの思考実験に書いた。

大型書店は、本との出会いを売っている。それも読書文化を育てる一面は持っていると考えるが……。それにしても、大型書店をめぐる評判は称賛一色だ。なぜだろうか。
タイムラインは、時代のすべてか?
マスコミが取り上げたものに、多くの人が乗っていく。バンドワゴン効果だ。それを流行とかムーブメントと呼ぶのだろう。いまはSNSのアルゴリズムが、そこに強いレバレッジをかける。称賛が称賛を呼び、その店のやることは全部素晴らしい、という空気ができあがる。
試しに、この話題で問いかけるポストをしてみた。インプレッションはほとんど伸びなかった。称賛は流れ、問いは流れない。それを自分で確かめた形になった。
ただ、アルゴリズムが見せるのは、プラットフォームが選別した刺激に対する反応が集まったものだ。世の中の実態ではない。それは、売場から若者を見ていた書店員さんと同じ構造だ。そして僕自身のタイムラインもまた、ひとつの泡にすぎない。アルゴリズムの中の世界を「時代のすべて」だと思うのは、リスキーな思考だ。
読書人であるがゆえに
書店が減り続けるなかで、大規模書店チェーンが新たな出店に挑む姿勢には、素直に敬意を払いたい。その店が、本に触れるきっかけを作っているのも事実。僕が行かないのは、ただ自分の物差しに合わないだけ。
しかし、売れていることも、話題になっていることも、それだけで素晴らしいという証拠にはならない。流れてくる称賛に乗る前に、一度立ち止まって考えてみる。それが、このブログの名前に込めた姿勢でもある。
自分の見ている範囲が世界の全てだと錯覚しないこと。アルゴリズムによる視野狭窄は自分にも起こり得ると自覚すること。検証・再現可能な理論で正しく社会の事象を読み解くこと。僕は読書人であるがゆえに、この三点を常に意識すべき大事なことだと人一倍感じている。


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皆さんの読書と書店に対する向き合い方は、どういうものでしょうか?ぜひお聞かせください。
※脚注
- 『依存症ビジネス──「廃人」製造社会の真実』デイミアン・トンプソン著 中里京子訳 ダイヤモンド社 2014年 P106
- 文化庁「令和5年度 国語に関する世論調査」(文化審議会国語分科会 参考資料1「文字・活字文化を取り巻く諸状況」)
- 『再考 ファスト風土化する日本 変貌する地方と郊外の未来』三浦展著 光文社新書 2023年 P3〜4







