偶然のようで、必然だった出会い──本と、ポストと
偶然というものは、ときに思考の続きを用意してくれているようです。先日、『紙と人との歴史──世界を動かしたメディアの物語』という本を読みながら、人類がいかにして「神」という概念をつくり、それを記録し、制度に変えていったかを追体験していました。言葉、文字、そして“紙”。
まさに思索の真っ只中、X(旧Twitter)で山本紙業さんの投稿がタイムラインに流れてきたのです。
──僕はその言葉に、背筋がすっと伸びるような感覚を覚えました。 これはまさに、「紙とは何か?」という問いに、直感的に答えを与えてくれるような一文でした。
紙は思想の“パイプ役”だった──『紙と人との歴史』からの学び
ちょうどその時、読んでいた本の序章にはこう記されていました:
紙は、ほかに代わるもののない媒体として、政策・思想・宗教・プロパガンダ・哲学を伝播してきた。その時代の最も重要な文明のなかで生まれたアイデアを、国内はもとより他の文化圏にも伝える役割を果たしたのだ。
「紙と人との歴史ー世界を動かしたメディアの物語」アレクサンダー・モンロー著 原書房 第一章 紙の来た道をたどる 9ページより引用

思想や宗教、つまり「人の中の抽象」を、現実世界に届ける装置としての“紙”。 この一節を読んだとき、僕の中でひとつの確信が芽生えました。
紙がなければ、神はただの言葉だったのではないか?
文字を通じて神は書かれ、紙の上に宿った。そこから制度が生まれ、共同体が生まれ、そして文明が構築されていった。
「紙なくして、神なし」──宗教も制度も、紙があってこそ
本書では、さらに歴史的な例が続きます。
アッバース朝の官僚たち、クルアーン(コーラン)を通してイスラム峡谷としてのアイデンティティを確立しようとした神学者たちも紙を用いた。八世紀末に新たに建設されたバグダードが王都として定められたのちに、そこから続々と生まれた科学者や芸術家たちもそうだ。デリシウス・エラスムスやマルティン・ルターといった学者や翻訳者も、ヘブライ語やギリシア語やラテン語の聖書を発掘、再生、翻訳する過程で、安く手に入るイタリア製の紙を活用し、机上から文芸復興と宗教改革を起こした。
同前「紙と人との歴史」第一章 10ページより引用
これは決定的な一打です。
「神」は、文字によって言葉となり、紙によって“世界の人々へ届く存在”になった。 かつて神は、口伝や儀式の中でだけ存在していました。しかし紙が登場したことで、神は“言葉に記述される”存在になったのです。
紙なくして、神なし。
このフレーズは、僕の中で冗談ではなく、思索の核として居座り続けています。
紙のプロの言葉が持つ“本質”──紙は意識の拡張装置か?
そんな折に見かけた、山本紙業さんの言葉。
紙は描かれる事で命が吹き込みますし、万年筆は書いて貰うことで彩りとしての道具が成り立ちます。
これは、まさに「道具が人間の思考を拡張する」という哲学を、紙と万年筆の関係で見事に表現していると感じました。
そして僕へのリプライにあったこの言葉ー
「そう考えると、紙って人間の意識の拡張なのかも」
これには思わず、膝を打ちました。まさにその通りなのです。
マクルーハン(カナダの文明批評家)が「メディアは人間の延長である」と述べたように、紙もまた人の思考や記憶を外部化し、保存し、他者に共有する“装置”なのです。
その言葉を、印刷や広告の文脈ではなく「紙業メーカさん」の言葉として自然なカタチで表れたことに、僕は深く感銘を受けました。
紙の未来は誰の手に?──プロに教わりながら、僕は考え続ける
ここまでの内容は、あくまで「紙好き(文具好き)のブロガー」が、思索と読書とSNSの対話から得た個人的な気づきにすぎません。
けれど、この問い──「紙とは何か?」を考えることが「自分が何者なのか」「書くとはどういう行為か」にもつながっていくのだと、僕は感じ始めています。
そして、そうした問いを導いてくれたのが、山本紙業さんの言葉であったことも、また確かです。
僕はプロではありません。 だからこそ、紙のプロフェッショナルたちの言葉から学びながら、これからも「書くこと」と「紙」について考えていきたいと思います。
──これは、まだ続く問答『紙とは何か?』『書くとは何か?』のはじまりです。
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